新訳の底本には、英語圏で最も広く流通している1939年版(Faber & Faber社から出版された初版)のテクストを使用した。ただし、1939年版の刊行後、ジョイスはポール・レオンの助けを借りつつ1940年までの間に多くの著者修正を同版の複製に書き込む形で残している。1939年版のテクストでは意味が通らず、ジョイスによる著者修正を反映させた場合は意味が通ると訳者が判断した箇所について、新訳底本に著者修正を反映させた(厳密には例外的な修正箇所もごく少数存在するが、詳しくは以下で説明する)。なお、著者修正の反映箇所は、「ノート」の各章の末尾に「著者修正一覧」としてまとめてあるが、全ての反映箇所について個別に説明すると長くなりすぎるため割愛する。気になる箇所がある場合は、画面右下の郵便箱マークからご一報いただければ、時間的に可能な範囲で回答したい。
1. 概要
『フィネガンズ・ウェイク』の原著には主に次の2種類が存在する。
1939年版: Faber & Faber社から1939年に刊行されたテクスト。
2010年版: ジョイスがポール・レオンらの助力を受けつつ1939年版に施した著者修正をジョイス研究者のダニス・ローズとジョン・オハンロンが吟味して反映させ、Houyhnhnm社から2010年に刊行されたテクスト。
英語圏では1939年版のテクストが圧倒的に広く流通している。2010年版のテクストは少部数の刊行に留まり、現在では入手困難になっている。よって、原著と新訳を突き合わせて読む読者は、1939年版を参照する可能性が高い。そうした事情を鑑み、新訳では基本的に1939年版を底本として用いた。
ただし、ここでひとつ問題が生じる。1939年版テクストには多くの誤字脱字があるのだ。これらの誤字脱字は、1939年版の念校ゲラと1939年版テクストを比較することで明らかになる。ジョイスとレオンらによる著者修正も、その大半は1939年版の念校ゲラの内容を写したものにすぎない。
ジョイス研究者のローズとオハンロンは、念校ゲラとジョイスらによる著者修正の内容を注意深く吟味し、然るべき著者修正を1939年版のテクストに反映させた。ローズとオハンロンの前から、著者修正の存在そのものは知られており、これらのごく一部を反映させたテクストが刊行されたこともあった。しかし、一連の修正を網羅的かつ批判的に吟味し反映させたのはローズとオハンロンが初めてであり、これこそ彼らの大きな功績である。こうして2010年版が完成し刊行された。
訳者の立場からすると、2010年版のほうが新訳の底本として明らかにふさわしい。念校ゲラと著者修正の内容に整合し、また実際に2つのテクストを読み比べてみた場合、2010年版の方が多くの場合、文構造や句読法を考慮しても、語彙や綴字を考慮しても、合理的な形で文意や文脈を把握することができるためである。
しかしながら、たとえ2010年版の方が底本として優れていても、1939年版の方が圧倒的に広く流通しているという事実は無視できない。2010年版をそのまま底本として用いた場合、1939年版を原著として用いて原文と訳文を併読する読者に混乱を与えるリスクが生じる。
読者へ混乱を与えるリスクを最小化しつつ、かつ1939年版の欠点を解消する妥協策として、新訳では一定の条件を満たす場合のみ1939年版にジョイスおよびレオンらの著者修正を反映させるという方針をとった。また、著者修正の反映を検討する際には、それが1939年版の読者に混乱を与えるリスクに配慮しつつ決定を行った。
2. 具体例
以上の方針がどのように新訳底本の内容決定のプロセスを導いたか、具体例をいくつか紹介してみたい。
まず、I.2章の書き出しには早くも、1939年版と2010年版の間に異同が見られる。
1939年版: Now (to forebare for ever solittle of Iris Trees and Lili O’Rangans),
2010年版: Now (to forebare for ever solittle of Iris Frees and Lili O’Rangans),
ご覧のように、1939年版の‘Iris Trees’が2010年版では‘Iris Frees’に変わっている。これは念校ゲラと著者修正をローズとオハンロンが反映させた結果である。ただし、この場合は新訳の底本には1939年版のテクストを採用した。なぜなら、‘Iris Trees’でも意味が十分に通り、また‘Iris Frees’への修正は、それが読者に混乱を与えるリスクを補って余りあるような長所を含んでいないと訳者が判断したからである。
続いて、p.42に登場する次の一節を比べてみてほしい。
1939年版: flushed with their firestufffortered friendship,
2010年版: flushed with their firestufffostered friendship,
これは昼食と酒を盛大に飲み食いした一同がパブから出てくるところを描写した節である。1939年版では‘firestufffortered’となっている一語は、「火酒」を意味する‘firestuff’と動詞の過去分詞と思しき‘fortered’からなる単語だが、意味が通らない。『オックスフォード英語辞典』にはforterという単語は見られないし、他言語を考慮するにしても、ノルウェー語で「速く」を意味する形容詞fortの不定複数形forterなどいくつか候補は考えられるが、‘fortered’という形をとって意味をなすものは見つからない。対して、2010年版の‘firestufffostered’ならば「火酒によって培われた」という意味の英語のフレーズとなり、本文の文脈とも合致する。そのため、新訳では2010年版のテクストを採用した(ちなみに、原文の頭韻を訳文にも反映させる目的で、新訳では「ひ」の頭韻を用いてこの節を「火酒の引き合せた比周に火面を張りつつ」と翻訳した)。
「ノート」末尾の「著者修正一覧」をご覧いただければ一目瞭然なように、実際に反映させた著者修正は、上記のような微小な(多くの場合は1文字分の)綴字の修正を少数含むものの、コンマやコロンといった細かい句読点の修正が大半を占める。ただし、I.2章にかんして言うと、単語の追加という大きな著者修正を、1939年版でも意味が通る箇所にあえて反映させた箇所が1つだけある。それはp.43の次の一節である。
1939年版: the ballad […] soon fluttered its secret on white highway and brown byway to the rose of the winds and the blew of the gaels, from archway to lattice and from black hand to pink ear,
2010年版: the ballad […] soon fluttered its secret on white highway and brown byway to the rose of the winds and the blew of the gaels, from green archway to gold lattice and from black hand to pink ear,
1939年版では ‘white highway’から‘pink ear’まで、white(白)、brown(茶色)、rose = red(赤)、blew = blue(青)、black(黒)、そしてpink(桃色)の各色が名詞を形容しているが、‘archway’と‘lattice’だけは形容詞がない。対して、2010年版では後者の2つの名詞にも‘green’「緑」と‘gold’「金色」という、色を表す形容詞がついている。ここでは、色を表す形容詞がなくても文意は通る。しかし、‘green’と‘gold’が追加された2010年版の方が〈色+名詞〉という反復の一貫性がある。そのため、ここは読者に混乱を与えるリスクを加味しても著者修正を反映させる価値があると判断し、2010年版のテクストを採用した。
上記はあくまで例外的なケースである。繰り返すが、新訳の原文に反映されている著者修正の大半は句読点レベルでの細かい修正である。例えば、p.42の次の一節を見てほしい。
1939年版: the trio of whackfolthediddlers was joined by a further—intentions—apply—tomorrow casual and a decent sort of the hadbeen variety
2010年版: the trio of whackfolthediddlers was joined by a further-intentions-apply-tomorrow casual and a decent sort of the hadbeen variety
これはダブリンの中心部へと向かう音楽家の3人組が気前の良い「昔気質系の輩」(the hadbeen variety)たちに遭遇する場面での一節だが、この「輩」を形容する句に含まれる記号に相違がみられる。1939年版では3本の横線がエムダッシュだが、2010年版ではこれがハイフンに修正されている。しかし、これらをエムダッシュとして読んだ場合、意味が通らない文になってしまう。対して、これらをハイフンとして読んだ場合、the hadbeen variety「昔気質系の輩」を形容するものとして自然なfurther-intentions-apply-tomorrowという句が得られる。よって、ここでは2010年版のテクストを採用した。
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